わりと人生が詰んだひきこもりの備忘録

さとう学。20年ものひきこもりから抜け出したのに勤めた会社はブラックでした。パワハラで再びひきこもりに。社会を変えようと市議選に立候補。ひきこもり新聞、ひきポスに記事を寄稿。

30歳になったら死のうと決意していたのに…

あれこれやろうと思っていたのだけれど、ほぼ寝たきり状態だった。
布団の中で昔のことを思い出していた。

自分の母は、2009年の1月に死んだ。膵臓がんだった。病気が発覚したのは2008年の10月前後だったような気がする。その1ヶ月前の9月に姉が子どもを産んだ。母にとっての初孫だった。僕にとっての初姪にもなる。

 

僕は、姉が妊娠したときからあることを恐れていた。姪が物心をついたとき、自分がまだひきこもっていたらどうしようかと悩んでいた。

「叔父ちゃん、何でいつも家にいるの?」と聞かれたらどうしよう。姪が中学生になったら軽蔑のまなざしを向けられるのだろうか。姪が高校生になったら哀れみの感情を抱かれるのだろうか。そんなことを思っていた。

 

今まで母と二人暮らしだった。父は秋田に単身赴任だったし、姉と兄は実家を出ていた。母が死んで僕は一人暮らしになった。ご飯の炊き方から洗濯の仕方すらわからなかった。生活スキルがまったくなかった。

だけど、ネットでそれらを調べながら一つひとつできるようになってきた。そうした作業に没頭することが、頭の中に大きく膨らんでいる不安感を打ち消してくれた。

 

僕は、そのころ作業所(今だと就労何とかB型というのだろう)に通っていた。本来の通所時間を超えて作業させてもらった。工賃は出なかったけれどそれでよかった。時間をつぶせたし、不思議と全然疲れを感じなかった。今思うと、感覚が麻痺していたのだと思う。

ただ、このまま作業所にいるのは良くない。働かなきゃ、働かなきゃ、働かなきゃ。頭の中でそのフレーズが繰り返されていた。

 

僕は、作業所の所長に働こうと思うと伝えた。

「あなたが働けるはずがない。ずっとここにいなさい。私がいるあいだならあなたを臨時職員として雇える。これ以上、常勤の職員として雇うのは無理だけど、週三ていどなら大丈夫。収入が足りない分はあなたのお父さんの出してもらえばいいじゃない」と子どもを諭すような口調で所長が言った。

 

僕はその所長の提案を断った。働くための基礎力をつけるために作業所に通っていたのに今までのことは何だったんだ。怒りで体中が震えた。

「あなたはプライドが高いのね。一流を捨てたと思ったのに」と所長は言った。普通に働くことは、一流の人にしか許されないことなのだろうか。

 

医者に所長とのやり取りを伝えた。

「働けないなんてことはない。今は、精神も障害者枠として働けるんだ。障害者手帳を取って仕事を探せばいい。でも、おかしいな。君のお母さんには障害者手帳を勧めていたんだけどまだ取っていなかったのか……」

嬉しかったことが一つ。医者が働けると言ってくれたこと。悲しかったことが一つ。母が障害者手帳のことを隠していたこと。

 

病院では、主に僕が医者に診てもらって時々母が相談するという形だった。医者は、母が僕のことをよく理解している人だと言っていた。だから、母に手帳の件を言えばそのまま僕に伝えると思ったのかもしれない。

思えば、母は精神科に通うことも反対していた。放置していたせいなのか、僕の症状は次第に悪化していった。外に出ることも大変だったし、電話をすることもできなかった。助けを呼ぶことすらできなかった。母は、保健師だったのに。

 

あるとき、市報に保健所でひきこもり相談をしていると掲載されていた。母に相談してくれと頼んだ。断られた。僕は、暴れた。頼むから保健所に相談してくれと暴れた。

母はしぶしぶ保健所に連絡してくれた。まず保健師さんが来た。話を一通り聞いてくれた。次は精神科医と保健師が来た。精神科に診てもらうことを勧められた。

今まで精神科に抵抗があった母は何も言わなかった。散々、精神科に行くともっと悪くなる、薬でもっとおかしくなると言っていたのに。
母に対する怒りが生まれた。

 

精神科に通い始めるようになった。あるとき、僕が医者に斎藤環というひきこもりに詳しい精神科医の話をした。医者は、後日「斎藤環さんの本を読んだよ」と言った。ひきこもりという共通のワードで話をすることができるようになった。

保健所の保健師さんに「ひきこもりの自助グループを作ってくれませんか」と頼んだ。実現してくれた。数人のひきこもり当事者が集まった。月一回の開催がやがて隔週に一回という頻度になった。

ひきこもりの自助グループが物足りなくなったので作業所に通うことにした。毎日のように外に出るために。そして、いずれ働くためのリハビリのために。

 

作業所に通っているとき、何度かアルバイトや派遣に挑戦したことがあった。どれもすぐに辞めた。症状が出てしまい、仕事どころではなくなってしまうから。

そのころは障害者枠ということも知らなかった。働くことができないことに絶望した。生きていても仕方がない。30歳になったら死のうと決意した。
鶴見済の「完全自殺マニュアル」をブックオフで買った。中身をぱらっとめくってみた。それ以上、読む気が生まれなかった。

 

でも、死ぬ決意は揺るがなかった。どうやって死のうか考えた。死ぬといっても僕は清く正しく死にたい。電車やマンションの屋上から飛び降りるなんてとんでもない。遺族に賠償金が発生するというし、誰かのトラウマの原因になるかもしれない。

象は自分の死期を悟ると群れから離れてひそかに死ぬという。僕もそうしたい。自殺といえば、やはり樹海だ。しかし、僕は電車に乗れなかったから樹海まで行くこともできない。死ぬのもハードルが高い。

 

あれこれ考えていたら30歳を過ぎてしまった。なんてことだろう。吉田松陰先生が享年30歳というのにこのクソ虫は30歳を超えて何もなさず。社会の不良債権になっている。

そして、自分が死ぬ前に母が死んでしまった。
子どもが親より先に死ぬのは親不孝と言うけれど自分の場合はちがうような気がする。自分が先に死ぬほうが、筋が通っているような気がする。

母が死んでから「人は死ぬんだ」と思った。もちろん、概念ではわかっていたけれど母の死は痛烈に自分にその事実を突きつけた。死とは何だろうと思った。少し前に死ぬんだと決意していたはずなのに何も考えていなかった。