わりと人生が詰んだひきこもりの備忘録

さとう学。20年ものひきこもりから抜け出したのに勤めた会社はブラックでした。パワハラで再びひきこもりに。社会を変えようと市議選に立候補。ひきこもり新聞、ひきポスに記事を寄稿。

動けない側の動ける側に対する要求水準が高くなっている

オレがひきこもっていたときって支援というと行政とか福祉法人、医療機関がメインだった。だから、相手の力量に少しは期待するわけ。それで飯食っているんだろうしと思って。過剰な期待は禁物なんだけどね。

あとまあ、オレは働きたいのと医療の力を借りたいと思っている人間だから行政などの人からするとやりやすいと思うわけよ。方向性が見えるし。それと周囲の人間はそういうのを好意的に見るから生きやすくなる。

だけど、働くのが怖い、でも医療も福祉も嫌だという人もいる。最初は同情的に見ている人たちがそういう人に対してけっこう苛ついてくるのが伝わるわけ。

 

親の高齢化もあるから決断を迫られるんだよ。でも、決断しない、できない人もいる。だけど、親が死ぬか介護状態になれば否応なくそれは来る。

まあ、そうならないように行政のサポートがという話になるんだろうけれど、これって限りある資源の奪い合いじゃん。仮にひきこもりに人員と予算を出しましょうとなると、どこかが削られる。

どこかの野党みたいに既得権から奪えとか言っても政治的に力があるから今まで奪えなかったんだろう。それとも奪うために戦えるだけの力がある?

 

オレが福祉施設や医療の力を借りながら障害者枠で働いて、まあそこで挫折してまたひきこもりの世界を見ることになったんだけど、そこで驚いたんだ。

ひきこもり当事者・経験者がなんか頑張っているから。すごいなと思ったんだ。一方、その当事者たちがきつくないかとも思ったの。だって、自分たちより動けない人たちにも配慮しましょうと言っているから。

いやいやいや、行政とか福祉とか医療とかで飯を食っている人が配慮を要求されるのはわかるんだ。仕事なわけだから。だけど、きついはずの当事者にその配慮ってどこまでできるのか疑問だし、下手すれば共倒れするんじゃないかなと思うんだよ。

 

オレが選挙に出てなんか目立っちゃったこともあってあれこれ寄ってきた人もいるんだけど、すごく困惑した。あれっ、ちょっと動けただけで支援者的なものを求められるのかよって。

動けない側の動ける側に対する要求水準が高くなってないかって思ったの。老老介護的なもの感じたんだよ。普通、重いうつ病の人が軽いうつ病の人に頼る? 頼らないと思うんだ。だけど、ひきこもりの場合はちがうの。何なんだろうこれってずっと疑問だった。

 

オレの場合、福祉、医療、ひきこもりの居場所を使い分けている。福祉の居場所は医療とも連携を図りかつ就労の相談にも乗ってくれるんだ。ただし、そこの居場所の人たちとは話が合わないんだよ。病気が前面に出ている感じがして。その点、ひきこもりの居場所に来ている人は話が合う。オレはそれだけのために来ている感じ。

だけど、その居場所の運営者に配慮も責任も求めるつもりはないんだ。それだけの対価を払っていないし相手もそれを職業にしているわけじゃないから。

自分に合わなければ行かなければいいし、福祉なら地域活動支援センターがあるわけだから。病院ならデイケアとかさ。話が合わないというのはあるけどまあそこは妥協してさ。すべてがすべて、自分に合うわけないわけだし。

 

地活やデイケアで相手に配慮って感じないような気がする。そもそも、そんな余裕がある人いないから。そこは職員が上手くやるんだと思う。でも、ひきこもりの居場所はそういう人がいないことのほうが多い。

となると、その役割を動ける当事者が担うわけなんだけどその重さに耐えきれなくなってつぶれてみんな動けなくなるんじゃないかという懸念があるんだよな。